先日、ルソーの『人間不平等起源論』を読んでみました。
そこで今回はルソーの『人間不平等起源論』をわかりやすく解説していきたいと思います。
この記事を読んで面白そうだと思ったら、是非手に取って読んでみてください。
『人間不平等起源論』のテーマ
私は人類のなかに二種類の不平等を考える。その一つを、私は自然的または身体的不平等と名づける。〔中略〕もう一つは、一種の約束に依存し、人々の合意によって定められるか、少なくとも許容されるものだから、これを社会的あるいは政治的不平等と名づけることができる。
ルソー『人間不平等起源論』本田喜治・平岡昇訳、岩波書店、1933年、36頁
ルソーが言うには、不平等には二種類あります。
一つが自然的不平等(身体的不平等)で、自然的に発生する不平等のことを指します。
例えば、背の高さ、足の速さ、頭の良さなどが挙げられます。
そしてもう一つが社会的不平等(政治的不平等)で、これは社会において発生している不平等のことを指します。
例えば、特権的な権力や財力などが挙げられます。
本書で考察される不平等は後者です。
つまり、『人間不平等起源論』のテーマは社会的不平等(政治的不平等)が発生した理由を論じることにあります。
『人間不平等起源論』の構成は第一部と第二部から成っています。
第一部では社会的不平等が生じる以前について、第二部ではそこからどのようにして社会的不平等が生じたのかについて述べられています。
第一部:なぜ主従関係が生まれるか?
第一部では、自然状態について論じられています。
自然状態とは、道具を手にする以前の人間の状態のことです。
すなわち、衣服や家などの一切の道具を持たず、動物のように振る舞っていた人間の状態のことを言います。
そこでは、主従関係(社会的不平等)は生じなかったと言われています。
なぜなら、もし自然状態において誰かに支配されそうになったとしても、そこから逃げればいいだけのことだからです。
もし私が一つの樹から追われるなら、それをすててほかの樹へ行きさえすればよい。
同書、82頁
では、なぜ主従関係は生まれるのでしょうか?
従属のきずなというものは、人々の相互依存と彼らを結びつける相互の欲望とからでなければ形成されないのだから、ある人を服従させることは、あらかじめその人間を他の人間がいなくてはやっていけないような事情の下におかないかぎり不可能である、ということは、だれでも知っているにちがいない。
同書、82-83頁
ここでは、主従関係は相互依存と相互の欲望から形成されると言われています。
言い換えると、支配者と服従者は相互依存の関係にあるということです。
例えば、資本家と労働者は主従関係にありますが、それと同時に相互依存の関係にあると言えます。
資本家は稼ぐために労働力である労働者に依存し、その一方で労働者も稼ぐために資本家の持つ設備に依存しています。
このように、主従関係は相互依存によって成り立ちます。
依存しているがゆえに、服従者は支配者の束縛から逃げ出すことが出来ないのです。
第二部:不平等の起源とは何か?
第二部では、自然状態からどのようにして社会的不平等が生まれたのかが描かれています。
そこでは、次のような過程をたどって不平等が出現したと言われています。
これらのさまざまな変革のなかに不平等の進歩をたどってみると、われわれは、法律と所有権との設立がその第一期であり、為政者の職の設定が第二期で、最後の第三期は合法的な権力から専制的権力への変化であったことを見出すでだろう。
同書、121頁
第一期
不平等の第一期は、法律と所有権であると言われています。
人類が発展するとともに人間は耕作を行うようになり、土地が分配されるようになりました。
所有の権利が生じることになり、それと同時に最初の不平等が生まれました。
というのも、耕作の能力や予想外の出来事によって収穫量に差が出てしまうためです。
同じように働いていながらも、ある者は富め、ある者は貧しくなるという事態が起こりました。
その結果、人々の間に紛争が生じたと言います。
そして、その紛争を抑えるために法律が作られました。
法律は紛争を一時的に食い止めましたが、それは富者にとって都合の良いものであり、私有と不平等を永遠に固定化してしまうのでした。
第二期
不平等の第二期は、為政者の職の設定であると言われています。
第一期では法律が制定されましたが、それだけでは人々に法律を守らせるために不十分でした。
なぜなら、ある人が法律を犯したとしても、それを検証して処罰する者がいなかったからです。
そこで人々は、特定の個人に法律を守らせるような仕事を委託したと考えられます。
それによって為政者が公的権力を持つようになります。
第三期
不平等の第三期は、合法的な権力から専制的権力への変化であったと言われています。
初めは、政府における為政者は選挙によって決められていました。
政党間による軋轢が拡大し、内乱が起こるようになると、政府のリーダーはそれを利用しようと企みます。
政府のリーダーは自分の地位と職権を永久化し、世襲制を導入しました。
人民にはそれに対抗する力も残されていなかったので、平和を得るために専制者の言うことに従うしかありませんでした。
最終的に、専制的権力を持つ専制者は国家をも自分の所有物であると見なすようになり、人民を奴隷として自分の所有物のように扱うようになったと言います。
そして、これが社会的不平等の最終的な形です。
『人間不平等起源論』から学ぶべきこと
便利になったけど、幸せになった?
〔中略〕こうした安楽が習慣になったために、その楽しみはほとんどすべて失われ、同時に、その安楽は変質して真の欲求となってしまったので、それがなくなれば、それがあった場合に愉快であったよりもいっそう惨めに感じられた。そして、人はそれを所有しても幸福ではないのに、それを失えば不幸であった。
同書、92頁
ある程度の欲求が満たされた人間は、安楽を求めるために余暇を用いましたが、それが不幸のみなもとであったとルソーは言います。
例えば、飢えを凌げるようになった人間は、より美味しいものを求めて行動します。
ですが、一旦美味しいものを食べられるようになると、最初のころはそれで幸せを感じることが出来ますが、時間が経つとその幸せは薄れていきます。
その結果、美味しいものがあっても幸福ではないが、それがなくなると不幸であるという状況が生み出されるのです。
これは、現代社会における多くのものに対して当てはめることができるでしょう。
住居、衣服、食べ物、娯楽、スマホ、パソコン、その他いろいろ。
私たちは上記のほとんどを所有していますが、それによって幸福を感じることは滅多にありません。
また、昔の人であれば、連絡手段が公衆電話と手紙のみだったとしても不幸に感じることはなかったでしょう。
しかし私たちはスマホがないだけで不便に、あるいは不幸に感じるはずです。
ここでルソーが言いたいのは「私たちの生活は便利になっているようで依存が増えているだけである」ということだと思われます。
この点は現代社会にも通じる指摘であるように感じます。
支配関係とは依存関係である
彼はその同胞の主人となりながらも、ある意味ではその奴隷となっているのである。すなわち、富んでいれば同胞の奉仕を必要とし、貧しければその援助を必要とする。
同書、101頁
支配関係とは依存関係であるということも本書において重要な点の一つです。
おそらく、強制的に服従させられているという状況を除いて、支配者とその服従者は相互に依存しています。
会社を主とし、会社員を従として考えると、会社は会社員の奉仕がないと存続できず、また会社員は会社の援助がなければ稼ぐことができません。
これは人対物の関係にも言えることであって、例えば私たちはお金に依存していますが、お金も流通し使われるためには私たちに依存しています。
このような支配関係を弱めるためには、私たちは依存を減らさなければならないでしょう。
終わりに
今回はルソーの『人間不平等起源論』について簡単に解説しました。
法的権力から専制的権力への移行についてはナチスドイツを例に見ることができますし、安楽の習慣化という指摘は現代社会にも通じるものがあります。
その意味では、本書は現代に起こっている問題を考察するときの手助けになるかもしれません。
この記事を読んだ方々が何か考えるときの手助けにもなることを願っております。
最後まで読んでくださりありがとうございました。