役に立つとは何かを問うのが哲学である
現代社会において、哲学はあまり意味がないと思われがちです。
「哲学って何の役に立つの?」
そういう声を耳にすることもあります。
では、哲学とは本当に役に立たない学問なのでしょうか?
鷲田清一はそのような問いに対して、次のように答えています。
〔哲学は〕具体的な出来事にじかに「役に立つ」わけではなくとも、「役に立つ」べきという強迫に対して「役に立つ」とはどういうことか考えるという実践性は少なくとも有している。
鷲田清一『哲学の使い方』、岩波書店、2014年、232貢
ここで鷲田が言っていることを端的に表すと「役に立つとは何かを問うのが哲学である」ということです。
「役に立つ」とは?
「役に立つ」とはどのような意味なのでしょうか?
私たちが「役に立つ」と言うとき、それは「ある目的を達成する手助けになる」という意味で使います。
例えば「勉強は将来の役に立つ」というのは「勉強が良い将来を得るという目的の手助けになる」という意味を持ちます。
「将来」という言葉を抜いて「勉強は役に立つ」という言い方もできますが、それでも何かしらの目的が含意されています。
目的があるからこそ「役に立つ」と言えるのです。
では「哲学は役に立たない」とは、何を意味しているのでしょうか。
ここでは2つの可能性があります。
1つ目は、哲学には目的がないという可能性。
2つ目は、哲学には目的があるんだけれども、その目的に意味がないと思われている可能性。
おそらく、一般的に「哲学は役に立たない」という言葉が意味しているのは後者でしょう。
答えが出ない問いに頭を抱え続けても意味がない。
しかし、自己反省的に「役に立つ」ということの意味を再考できるのは哲学だけです。
科学や経済学は「役に立つ」ものではありますが、それが本当に役に立つのかという点には言及できません。
さきほど「役に立つ」とは「ある目的を達成する手助けになる」という意味だと言いましたが、それを踏まえるならば、哲学はその目的を再考することができると言えそうです。
つまり、「○○は役に立つ」と言うときに、それにはどのような目的が含意されており、その目的は正しいのかどうかを哲学は検討することができます。
「役に立つ」における目的とは?
私たちが「役に立つ」と言うとき、様々な目的が含意されています。
「自動車は役に立つ」と言うときは「移動」という目的があり、「お金は役に立つ」と言うときは「自分が欲しいものを手に入れる」という目的があります。
しかし、アリストテレスが言ったように、私たちの最終的な目的というのは「幸福」であるということが言えます。
自動車もお金も、最終的には私たちの幸福のために使われます。
ここで哲学が問えるのは、それによって本当に幸福という目的に近づいているのか、という点です。
現代においては、そこが蔑ろにされているとも言えます。
便利なものは役に立つのか?
では、便利なものは本当に役に立つと言えるのでしょうか?
ルソーの『人間不平等起源論』によれば、便利なものは本当に役に立つとは言えません。
なぜなら、便利なものは私たちを不幸にしている場合があるからです。
人間は便利な道具を作り出すなどの生活改善能力を有しており、多くの便利なものを生み出してきました。
しかしルソーは、便利なものを持つと一時的に幸せにはなるものの、すぐにそれがデフォルト化してしまうと言います。
すると、便利なものがあっても幸せではないが、ないと不幸になるという状態に陥ります。
例えば、新しいスマホを入手すると便利で一時的にはいい気分になるものの、しばらく経つとそれが普通になってしまいます。
そして、スマホがあっても幸せではないが、ないと不幸になるという状況が生み出されるのです。
この場合、スマホは本当に役に立つとは言えません。
スマホによって、私たちが幸福になったとは必ずしも言えないからです。
もちろんこれは極論ですが、「役に立つ」ことについて考えるうえで参考にはなるはずです。
効率主義的な世界に抗うために
鷲田が言ったように、現代においては「役に立つ」べきだというある種の強迫のようなものが蔓延しています。
そのような社会では、「役に立たない」ものは限りなく排除され、「役に立つ」ものだけが残るようになるでしょう。
行き過ぎた効率主義は、何を目指すのでしょうか?
私たちを幸せにする手段であるはずの「役に立つ」もの、それ自体が目的化しているように感じます。
たしかに哲学というのはすぐに実践的に「役に立つ」とは言えません。
しかしそれでも、行き過ぎた効率主義の中で立ち止まり、反省することができるという点では哲学は役に立つと言えるのではないでしょうか。
何かしらのヒントになれば幸いです。